プレカリティ心理学とキャリアコーチング 不安定な時代に「働く意味」と「尊厳」を取り戻すために
プレカリティ心理学とキャリアコーチング
「この先、自分の仕事はどうなるのだろう」「非正規のまま歳を重ねたらどうしよう」「AIに仕事を奪われるかもしれない」——そんな漠然とした不安を抱えながら、それでも前を向こうとしている方は、決して少なくありません。終身雇用の前提が揺らぎ、非正規雇用や副業・フリーランスという働き方が広がり、生成AIが仕事のかたちそのものを変えつつある今、私たちの「働くこと」をめぐる足場は、かつてないほど不安定になっています。
こうした時代の心理的な影響を、個人の性格や努力不足の問題としてではなく、社会構造との関係の中で科学的に読み解こうとする理論枠組みが「プレカリティ心理学(Psychology of Precarity)」です。本記事では、この比較的新しい理論の中身をわかりやすく解説しながら、キャリアコーチングの現場でどのように活かせるのかを、共感と実用性の両方の視点からご紹介します。
プレカリティ心理学とは何か
プレカリティ心理学は、Boston College のDavid L. Blustein教授らの研究グループが2024年にAmerican Psychologist誌に発表し、2025年に正式収録された「The Psychology of Precarity: A Critical Framework」という論文によって体系化された、比較的新しい心理学の批判的枠組みです。
この論文でプレカリティは、「構造的な不平等」と、そこから生じる「疎外感(alienation)」「アノミー(anomie、社会規範の喪失による混乱)」「不確実性(uncertainty)」の経験とを結びつける、心理社会的な概念として定義されています。人類学、文化研究、社会学、政治学、そして心理学という複数の学問分野の知見を統合しながら発展してきた点も特徴です。
Blustein教授は、これまで「ワーキングの心理学理論(Psychology of Working Theory:PWT)」を提唱してきた研究者であり、プレカリティ心理学はこのPWTを基盤に発展した、より批判的で社会正義志向の強い理論と位置づけられています。
「不安定さ」を構成する3つの次元
プレカリティ心理学と関連の深いモデルとして、Allanらの研究では、雇用の不安定さを次の3つの次元に分けて捉えることが提案されています。
- precarity of work(仕事の不安定さ):雇用がいつまで続くか分からないという不確実性そのもの
- precarity at work(仕事における不安定さ):職場での差別や、安全・健康上のリスクにさらされている状態
- precarity from work(仕事による不安定さ):働いていても、基本的な生活を維持するのに十分な収入が得られない状態
| コーチが押さえておきたいポイント
プレカリティは「その人の準備不足」や「キャリア設計の甘さ」といった個人の弱さの問題ではありません。 多くの場合、雇用制度・労働市場・社会政策といった構造的な要因が土台にあります。 この視点を持つだけで、クライアントへの声かけや問いの立て方が大きく変わります。 |
なぜ今、キャリアコーチングにプレカリティ心理学の視点が必要なのか
日本でも、非正規雇用で働く人の割合は高い水準で推移しており、雇用の流動化や成果主義の広がりとともに、「安定した職業選択をして、段階的にキャリアを積み上げていく」という従来型のキャリア発達モデルが、必ずしも現実に合わなくなってきています。加えて、生成AIによる業務代替への不安は、専門職・ホワイトカラー層にも広がりつつあります。
コーチングの現場では、クライアントが将来不安や焦りを語る場面によく出会います。そこで「ポジティブに考えましょう」「強みを活かしましょう」という前向きな言葉だけを重ねてしまうと、構造的な要因を見えなくし、結果として「うまくいかないのは自分の努力が足りないからだ」という自己責任論をクライアントに内面化させてしまう危険があります。プレカリティ心理学は、この落とし穴を避けるための理論的な足場を、コーチングに提供してくれます。
プレカリティが心と行動に与える影響——科学的知見から
PWTの枠組みでは、社会的な疎外(marginalization)が、プレカリティを予測する主要な要因のひとつであることが示されています。人種・階層・性別などに基づく構造的な不利は、雇用の不安定さと結びつきやすく、それが個人の心理状態に波及していきます。
また、Blustein教授らは近年、「尊厳(dignity at work)」という概念を中心テーマとして位置づけています。慢性的な不確実性のもとに置かれ続けると、人は将来を見通す力(prospection)の低下、コントロール感の喪失、無力感といった心理的な反応を示しやすくなることが指摘されています。
一方で、すべてがネガティブな帰結を招くわけではありません。臨時・派遣的な働き方をする労働者を対象にした質的研究では、社会的な支援や資源へのアクセス、そして自分の置かれた状況を構造的に理解する「批判的意識(critical consciousness)」が、レジリエンスを支える保護要因として機能しうることが示されています。これは、コーチングが介入できる重要な余地でもあります。

Tomorrowmind/PRISMモデルとの接続
プレカリティ心理学の知見は、ポジティブ心理学の枠組みであるTomorrowmind(PRISMモデル:Prospection・Resilience・Innovation・Social Connection・Mattering)と組み合わせることで、より実践的なコーチング介入へとつなげることができます。
- Prospection(見通す力):不確実な未来の中でも、小さく検証可能な次の一歩を一緒に描く
- Resilience(レジリエンス):「個人の強さだけで乗り切れ」という自己責任論に陥らせず、構造的要因への理解を伴う形で回復力を育む
- Innovation(イノベーション):制約のある状況の中でも、新しい選択肢やキャリアの組み合わせ方を発見する創造性を後押しする
- Social Connection & Mattering(つながりと存在意義):孤立しがちなプレカリティ状態の中で、「自分は誰かにとって意味のある存在だ」という実感を持てる関わりをつくる
キャリアコーチングでの実践的アプローチ
ステップ1:構造的要因を「個人の失敗」として内面化させない
ナラティブ・アプローチを用いて、クライアントが語る「うまくいかない自分」というストーリーの背景に、どのような構造的要因があるのかを一緒に言語化していきます。「あなたの努力が足りないのではなく、雇用の仕組み自体が不安定になっている」という視点を共有するだけでも、クライアントの自己批判が和らぐことがあります。
ステップ2:尊厳を守る対話
動機づけ面接(Motivational Interviewing)のOARS(開かれた質問・是認・聞き返し・要約)を用いて、評価や助言を急がずに、クライアントの経験そのものに敬意を払う対話を心がけます。プレカリティな状況にある人は、すでに社会から評価・審査され続けている感覚を持っていることが多いため、コーチングの場だけは「審査されない場」であることが重要です。
ステップ3:コントロール可能な領域を一緒に特定する
すべてをコントロールすることはできなくても、「今週できる小さな一歩」は必ず存在します。WOOP(願望・成果・障害・計画)のような手法を使い、実現可能な範囲での行動計画に落とし込みます。
ステップ4:社会的つながり・資源への接続を後押しする
プレカリティは孤立を伴いやすいため、コーチング単体で完結させず、コミュニティ、労働組合、公的支援制度、同じ立場の仲間とのネットワークなど、外部資源への接続をあわせて後押しします。
ステップ5:批判的意識を育む問いかけ
「この不安定さは、どこから来ているのだろう?」「同じような立場の人は、他にどのくらいいるのだろう?」といった問いを通じて、状況を構造的に捉え直す視点を育みます。これは諦めを促すためではなく、むしろ自己批判から解放され、次の一歩を踏み出しやすくするための問いです。
プレカリティ心理学コーチングと従来のキャリア理論との比較

| 観点 | 従来のキャリア理論 | プレカリティ心理学コーチングに基づく視点 |
| 不安定さの原因 | 個人の準備不足・能力不足として捉えがち | 雇用制度や労働市場など構造的要因を重視 |
| キャリア発達の前提 | 直線的・段階的な発達を想定 | 非直線的で、不確実性そのものを前提とする |
| コーチの役割 | 目標達成に向けた伴走 | 尊厳の回復と批判的意識の醸成もあわせて担う |
| 成功の指標 | 昇進や安定した職への到達 | 意味・尊厳・つながりが実感できていること |
よくある質問(FAQ)
Q1. プレカリティ心理学とは、簡単に言うとどのような理論ですか?
雇用や仕事をめぐる不安定さを、個人の性格や能力の問題としてではなく、社会構造との関わりの中で理解しようとする心理学の枠組みです。Boston CollegeのDavid L. Blustein教授らが2024〜2025年にかけて体系化しました。
Q2. プレカリティ心理学とキャリアコーチングは、具体的にどう結びつきますか?
クライアントの不安を「自己責任」として個人化せず、構造的要因への理解を踏まえたうえで、尊厳の回復・小さな行動計画・社会的つながりの構築を支援するコーチングのあり方につながります。Tomorrowmind/PRISMモデルとも相性よく統合できます。
Q3. 日本のキャリア支援の現場で、どのように活かせますか?
非正規雇用や雇用の流動化、AIによる代替不安など、日本特有の文脈においても、クライアントの不安を過度にポジティブ思考で覆い隠さず、構造的な視点を持ちながら実践的な一歩を支援する姿勢として応用できます。
まとめ
プレカリティ心理学は、「不安定な時代を生きるクライアントの心理」を、個人の弱さの物語ではなく、社会構造との関係の中で捉え直すための、科学的で誠実な視点を私たちに与えてくれます。キャリアコーチングにこの視点を組み込むことで、クライアントの尊厳を守りながら、それでも前に進むための小さな一歩を、共に見つけていくことができるはずです。
不確実性がなくなることはなくても、その中で「自分には意味がある」「自分にはつながりがある」と感じられる瞬間を増やしていくこと——それこそが、これからのキャリアコーチングに求められる役割なのかもしれません。
さらなる発展のためのご提案
| この記事をさらに活かすためのアイデア
続編として「プレカリティ心理学×動機づけ面接(MI)」や「プレカリティ心理学×ナラティブコーチングの5ステップ」など、手法別に深掘りする記事シリーズにすると、SEO・AIOの両面で検索網羅性が高まります。 本記事の「ステップ1〜5」を、コーチング現場で使えるチェックリストやワークシートのPDF・図解インフォグラフィックとして別途制作すると、実務者向けの保存・共有価値が上がります。 比較表の部分を、後半で図解(インフォグラフィック)としてビジュアル化すると、SNSでの引用・拡散がしやすくなります。 「非正規雇用」「AI代替不安」「ミドルシニアの雇用不安」など、日本の読者層別にペルソナを分けた派生記事を作ると、より具体的な検索意図に応えられます。 Blustein et al.(2025)の原著論文の主要な図表・概念モデルを、次回の学会参加報告や研究紹介記事として1本立てるのも良さそうです。 |
参考文献
Blustein, D. L., Grzanka, P. R., Gordon, M., Smith, C. M., & Allan, B. A. (2025). The psychology of precarity: A critical framework. American Psychologist, 80(5), 757–770.
Blustein, D. L., & Allan, B. A. (in press). Dignity at work: A critical conceptual framework and research agenda. Journal of Career Assessment.
McWha-Hermann, I., Blustein, D. L., Seubert, L., Wilde, J., Allan, B. A., Searle, R. H., & Seubert, C. (2025). Tackling precarious work through work and organisational psychology. European Journal of Work & Organizational Psychology, 34(1), 1–11.
Blustein, D. L. (2019). The Importance of Work in an Age of Uncertainty: The Eroding Experience of Work in America. Oxford University Press.
キーワード:プレカリティ心理学 / キャリアコーチング / 雇用不安 / Blustein / Psychology of Working Theory / 尊厳(dignity at work) / 非正規雇用 / ポジティブ心理学 / Tomorrowmind / PRISMモデル / 動機づけ面接 / ナラティブコーチング
投稿者プロフィール

- 徳吉陽河(とくよしようが)は、コーチング心理学研究会・コーチング心理学協会の創設者の一人であり、日本・世界のおけるコーチング心理学のパイオニア。コーチング心理士、公認心理師・キャリアコンサルタント、認定心理士(心理調査)、ポジティブ心理療法士、教員免許(中学・高等学校:社会科・歴史・公民など)。教育・医療・福祉・産業分野で活動する専門家。東北大学大学院博士後期課程で研究し、国際コーチング心理学会、国際ポジティブ心理学会など、世界で学び、研究を発表。教育プログラム、心理尺度開発なども専門としている。著書に『ポジティブ大全』『科学的に正しい脳を活かす「問いのコツ」 結果を出す人はどんな質問をしているのか?』『ナラティヴ・セラピー BOOK』。翻訳書に『Tomorrowmind日本語版 これからの生き方』『コーチング心理学ガイドブック』『コーチング心理学ハンドブック』などの翻訳書などがあり、科学的なエビデンスと物語(ナラティブ)に基づくコーチングとウェルビーイング教育を推進している。累計4000名のコーチ、カウンセリング実績」(ワークショップを含む)、「累計6000回以上のセミナー実績」以上の実績がある。国土交通省 航空保安大学講師、元東北文化学園大学講師、元仙台医療センター看護学校講師、元若者サポートセンター講師など。教育機関、海外・国外の法人企業などで講師を担当実績がある。学校法人・企業法人・医療法人(リハビリ)など、主に管理職に関わる講師を数多く担当。座右の銘は、「我以外皆我師」、失敗・挫折もたくさんしており、「万事塞翁が馬」大切にしている。「自己肯定感が低いからこそ成長できる」ことを大切にしている。
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