国際応用心理学会 ICAP2026 参加報告3 クローズ プレカリティ心理学
ICAP2026 参加報告3 クローズ・セッション

Closing Keynote
The Psychology of Precarity: A Bridge between Personal Suffering and Social Reality
「プレカリティの心理学―個人の苦しみを社会構造から理解するための架け橋」
講演者:David Blustein 教授(Boston College)
本講演では、「プレカリティ(Precarity:不安定性)」を軸として、現代社会における個人の苦しみと社会構造との関係を心理学的にどのように理解すべきかについて、新たな理論的枠組みが提示されました。Blustein教授は、プレカリティを単なる不安定雇用や経済的不安ではなく、「社会構造と個人の心理を結び付ける心理社会的概念」と位置付け、これからの応用心理学に求められる新たな視点を提案されました。講演では、この研究を「プレカリティの心理学(Psychology of Precarity)」の新たな展開として紹介し、今後の心理学研究の重要な方向性を示しました。

講演冒頭では、2020年代の世界情勢が取り上げられました。新型コロナウイルス感染症のパンデミック、世界各地で続く戦争、AI技術の急速な進展、経済格差の拡大、気候変動、政治的分断など、多様な社会課題が同時に発生しており、多くの人々が慢性的な不安や将来への不確実性を抱える時代になっていることが指摘されました。教授は、このような状況は単なる社会問題ではなく、人々の心理状態にも深刻な影響を与えていることから、「この時代に対応するためには、新しい心理学的レンズが必要である」と述べました。
続いて、人間の「脆弱性(Vulnerability)」と「プレカリティ」の違いについて説明がありました。人間は誰もが病気や喪失、死などに直面する脆弱な存在であり、この脆弱性自体は普遍的なものです。しかし、プレカリティは誰もが同じように経験するものではなく、社会階層、経済状況、雇用形態、人種、性別などによって大きな格差が生じます。教授は、「脆弱性は普遍的であるが、プレカリティは本質的に不平等である」という言葉で、この違いを強調されました。
さらに、プレカリティは「構造的な現実」と「心理的経験」を結び付ける概念であると説明されました。経済的不安、非正規雇用、政治的不安定、気候変動、社会的不平等などの社会構造が、人々の不安や絶望感、無力感、孤立感などの心理的経験へと反映されることから、プレカリティは社会と心理をつなぐ「橋」の役割を果たすと述べられました。教授は、この関係を「鏡(Mirror)」という比喩を用いて説明し、私たちが感じる不安は個人の内面だけではなく、社会の姿を映し出したものでもあると論じました。

講演では、心理学への三つの重要な問いも提示されました。

第一に、「私たちが感じる不安は、病理ではなく現実社会への適切な反応ではないか」という問いです。不安定な社会環境に置かれている状況では、不安そのものを異常と考えるのではなく、現実への適応的な反応として理解する必要があるとされました。
第二に、「レジリエンスは重要であるが、それだけでは十分ではないのではないか」という問いです。近年、レジリエンスや自己効力感を高める支援が注目されていますが、それだけでは社会的な格差や貧困、不安定雇用などの構造的課題は解決できません。個人を強くするだけではなく、社会そのものを改善する視点が必要であることが強調されました。
第三に、「人間の苦しみは社会的条件を切り離して理解できるのか」という問いです。抑うつや不安などを個人の性格や能力だけで説明するのではなく、その背景にある労働環境や経済状況、差別、社会制度などを含めて理解することが、これからの心理学には求められると述べられました。
そのうえで教授は、「心理学は心だけを理解する学問ではなく、心が存在する社会環境を理解する学問へ発展しなければならない」と提言されました。
講演では、人々がプレカリティに直面した際の反応についても紹介されました。教授らは、プレカリティへの反応を三つに分類しています。
第一はResistance(抵抗)であり、社会を変えようとする行動や連帯、個人的・集団的な働きかけが含まれます。
第二はAdaptation(適応)であり、厳しい環境の中でも生き抜くために柔軟に対応していく姿勢です。
第三はResignation(諦め)であり、無力感や諦観、防衛機制、現実からの回避などが含まれます。ただし、これらは固定的なものではなく、人は状況に応じて複数の反応を行き来しながら生活していることが説明されました。
また、人間は不確実性に直面すると、その状況を理解しようと「意味づけ(Sense-making)」を行うことも紹介されました。しかし、その意味づけは必ずしも建設的とは限りません。批判的意識や社会的連帯につながる場合もあれば、特定の集団への責任転嫁や陰謀論へ向かう危険性もあります。そのため心理学者には、人々が社会構造を正しく理解し、自責や他責ではなく、現実に即した適応的な意味づけを支援する役割があると述べられました。
仕事(Work)についても多くの時間が割かれました。教授は、「仕事はプレカリティが最も明確に現れる場所」であると位置付けました。職場では、収入の不安定性、AIによる変化、アイデンティティの形成、権力関係、包摂と排除、人間関係など、現代社会が抱える多くの課題が凝縮されています。そのため仕事は、単なる収入源ではなく、人間の尊厳(Dignity)や自己価値感、社会参加を支える重要な社会的基盤であると説明されました。
さらに、組織心理学への示唆として、「組織はプレカリティを増幅しているのか、それとも人々を守る存在となっているのか」という問いが提示されました。心理的安全性を高め、帰属意識や信頼を育む組織はプレカリティを緩和する一方で、過度な競争や成果主義、排除を助長する組織はプレカリティを増幅させる可能性があります。今後の応用心理学では、個人だけではなく組織そのものへの介入や組織文化の改善も重要な研究・実践課題となることが示されました。
講演の最後には、「プレカリティ」は仕事、発達、メンタルヘルス、組織、コミュニティ、社会正義、公共政策を一つにつなぐ統合概念であるとまとめられました。従来は別々に扱われてきた心理学の各領域を、「不安定性」という共通の視点から統合的に理解することが可能になるという提案は、今後の応用心理学に大きな方向性を示すものでした。
所感・今後への示唆
本講演は、心理学が「個人を理解する学問」から、「個人と社会との関係を理解し、より公正で持続可能な社会の実現に貢献する学問」へと発展する必要性を強く示した内容でした。特に、コーチング心理学やキャリア支援の実践においては、クライアント個人の強みやレジリエンスを高めるだけではなく、その人が置かれている組織や社会環境、経済状況、文化的背景まで含めて理解することの重要性を改めて認識しました。
また、組織開発やリーダーシップ支援においても、「心理的安全性」や「ウェルビーイング」の促進だけではなく、プレカリティそのものを生み出さない組織づくり、すなわち人間の尊厳を守る組織文化の形成が今後ますます重要になると感じました。
本講演は、キャリア心理学、組織心理学、コミュニティ心理学、ポジティブ心理学、コーチング心理学を横断する新たな理論的枠組みを提示した極めて示唆に富む講演であり、今後の研究・教育・実践の方向性を考えるうえで大きな学びとなりました。
投稿者プロフィール

- 徳吉陽河(とくよしようが)は、コーチング心理学研究会・コーチング心理学協会の創設者の一人であり、日本・世界のおけるコーチング心理学のパイオニア。コーチング心理士、公認心理師・キャリアコンサルタント、認定心理士(心理調査)、ポジティブ心理療法士、として教育・医療・福祉・産業分野で活動する専門家。東北大学大学院博士後期課程で研究し、国際コーチング心理学会、国際ポジティブ心理学会など、世界で学び、研究を発表。教育プログラム、心理尺度開発なども専門としている。著書に『ポジティブ大全』『科学的に正しい脳を活かす「問いのコツ」 結果を出す人はどんな質問をしているのか?』『ナラティヴ・セラピー BOOK』翻訳書『Tomorrowmind日本語版 これからの生き方』『コーチング心理学ガイドブック』『コーチング心理学ハンドブック』などの翻訳書などがあり、科学的なエビデンスと物語(ナラティブ)に基づくコーチングとウェルビーイング教育を推進している。累計4000名のコーチ、カウンセリング実績」(ワークショップを含む)、「累計6000回以上のセミナー実績」以上の実績がある。国土交通省 航空保安大学講師、元東北文化学園大学講師、元仙台医療センター看護学校講師、元若者サポートセンター講師など。教育機関、海外・国外の法人企業などで講師を担当実績がある。学校法人・企業法人・医療法人(リハビリ)など、主に管理職に関わる講師を数多く担当。座右の銘は、「我以外皆我師」、失敗・挫折もたくさんしており、「万事塞翁が馬」大切にしている。「自己肯定感が低いからこそ成長できる」ことを大切にしている。





